【Nerd’s Records】#1「シン・ゴジラ」から読み解く2021

【Nerd’s Records】ナーズ=レコーズ
誰しもが持っている好きなものへの知識欲。
それを追い求め続け、愛を深めた「オタク」たちが存在する。
Nerd’s Recordsではそんなオタクたちの記録を発信していく。

今回のナードは、年に150本以上の映画を鑑賞する1998年生まれの映画マニア女子大生。業界最大手の映画配給会社に入社予定。
 『シン・ゴジラ』のあらすじを振り返った上で、「シン」という言葉に込められた複数の意味、日本における個・リーダーシップの形に関する提案、2021年において日本がCOVID-19にどう立ち向かうのか、に関して考察している。映画の公開当初、ゴジラと東日本大震災が度々重ねられたが、2021年においてゴジラとCOVID-19を重ねて本作を読み解くことができる内容となっている。


 2016年7月に公開された「シン・ゴジラ」は、興行収入82.5億を叩き出し、第40回日本アカデミー賞では、最優秀作品賞を含む最多7冠を受賞した。そんな本作だが、巧妙な仕掛けや、不可解な謎が多く、公開直後からSNS等で話題を呼び、ネット上では今でも様々な考察が繰り広げられている。そこで今回の記事では、コロナ禍を生きる大学4年生の視点で本作品に切り込みたい。


あらすじ


http://shin-godzilla.jp/

 
ある日、東京湾で水蒸気爆発が起き、アクアトンネルが崩落するという原因不明の事故が発生。首相官邸では緊急会議が開かれ、「崩落の原因は地震や海底火山」という意見が大勢を占める中、内閣官房副長官・矢口蘭堂は、海中に棲む巨大生物による可能性を指摘。周囲は矢口の意見を一蹴するが、直後、海上に巨大不明生物の姿が露わになる。その生物は東京都に上陸し、次々と街を破壊し、わずか2時間で死者・行方不明者は100名以上に。世界もその行方を注視する中、最後の手段となった「矢口プラン」。日本が全総力を挙げて“ゴジラ”と名付けられた正体不明の生物に立ち向かうのだった。


庵野秀明、魂の一作。


 長きにわたり多くのファンに愛されてきたゴジラシリーズだが、2014年に1つの節目を迎えていた。ハリウッド版「GODZILLA ゴジラ」が全世界で興行収入4億7731万ドルに達し、異例の大ヒットを打ち出したのだ。巨額の制作費をかけ、高度なCG技術を駆使したこの作品を超えるゴジラ映画は生まれないのではと囁かれる中、ゴジラ復権を一任されたのは、「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズ総監督として名高い庵野秀明だった。
 今や日本のアニメーション界を牽引する存在といっても過言ではない庵野秀明だが、「シン・ゴジラ」総監督着任への道のりは容易ではなかった。彼は、6年間自分の魂を削って作っていた「エヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の公開後、鬱状態に陥った。翌年は、自分が代表を務め、作品を背負っているスタジオに1度も近づくことが出来なかった。そんな最中、彼に東宝からオファーがあったのだ。「エヴァだけで手いっぱいだ」と、一度は固辞したが、東宝の誠意と盟友樋口真嗣監督の熱意に心を動かされ、監督を引き受けたのだ。
 シン・ゴジラ公式パンフレットで庵野は、「エヴァではない、新たな作品を自分に取り入れないと先に続かない状態を実感し、今しか出来ない、今だから出来る、新たな、一度きりの挑戦と思い、引き受けることにしました」と述べている。彼にとって、「シン・ゴジラ」の総監督を務めることは、過去の継続だけでなく空想科学映像再生の祈り、特撮博物館に込めた願い、思想を具現化してこそ先達の制作者や過去への恩返しであり、その意思と責任の完結であった。
 つまり庵野は、極限の精神状態にも関わらず、制作費、制作時間も極端に少ない日本の現場で、内容面に関する様々な制約を受けつつも、プライドをかけて、夢や希望だけでなく現実のカリカチュア、風刺や鏡像でもあるゴジラの空想科学世界を描いたのだ。「シン・ゴジラ」は間違いなく庵野の魂の一作である。


『シン』ゴジラ


 庵野自ら命名した本作品のタイトル「シン・ゴジラ」の「シン」には様々な意味が込められている。
 本作に登場するゴジラは、身長118.5m、全長333m、体重92000tというシリーズ最大の規模だ。そして、人間の発想を大きく上回り、短時間で進化・退化をするというかつてない特性を持ち、作中では自己増殖による無限繁殖などの可能性も言及された。さらには、生命維持エネルギーを体内の核融合炉で作り出し、人間の8倍の遺伝子情報を持つゴジラは、“死”という生命の宿命すらも覆す存在なのだ。庵野は、「新」「真」「神」という複数の「シン」を意味し、本作のタイトルを命名したのだ。
 あくまでゴジラシリーズというのは、特撮怪獣映画という立ち位置である。しかし、作品が訴えているものをみれば、ただの娯楽作品でないことは明らかだ。戦後直後の1954年に公開されたシリーズ第1作目の「ゴジラ」は、当時問題になっていた第五福竜丸事件が題材になっている。ビキニ環礁で米軍が水爆実験を行なった結果、強い放射能を帯びたサンゴ片の「死の灰」が降り注ぎ、公海上で操業中だったマグロ漁船・第五福竜丸の乗組員23名が被ばくし、人類初の水爆犠牲者を出した事件だ。この事件は日本国民にとって原爆投下の恐怖を思い出させることとなり、その恐怖の象徴として初代ゴジラは生まれたのだ。そして、その後も、続くゴジラシリーズの作中でも、核、放射能というテーマが扱われてきた。
 「シン・ゴジラ」のラストシーン、ゴジラの尾ひれにあるものが映し出された。この意味深な描写についてネット上では様々な議論が繰り広げられている。そもそも、「シン・ゴジラ」で登場するゴジラについて、「まるで東日本大震災の象徴のようだ」という声をたびたび耳にする。確かに、突如現れ、人間には到底太刀打ちできないエネルギーで、人々の生活を瞬く間に破壊し、放射能をも放つゴジラは、歩く災害、進化する災害と言えるだろう。その被害の大きさに、東日本大震災や、そこから派生した福島第一原子力発電所事故を重ねてしまうのは自然なことかもしれない。作中では、ゴジラが日本に襲来することを予測していた牧教授は、妻を放射能の事故で失ったことも示されている。何も変わらない日本政府への復讐のために、牧教授がゴジラを米国から持ち帰り、日本に放ったのではないかという考察もあるが、真相は謎のままだ。
 すなわち断定こそできないが、ゴジラは人々の怨念を可視化したモンスターと考えられる。言い換えれば、人間に「罪(SIN)」を思い出させる存在なのだ。ゴジラの尾ひれに映し出されたあるものは、まさに同じ悲劇を繰り返さぬよう日本に訴える意図があり、「シン・ゴジラ」は我々を試しているのかもしれない。


必要とされたのは優秀な1人のリーダーだったのか


 329名のキャストが出演する本作で、最も鍵となった人物は、やはり長谷川博己演じる矢口蘭堂だろう。彼は30代で内閣官房副長官に就くという輝かしいキャリアからもわかる通り、優秀な人物である。彼は、事故勃発直後から謎の巨大生物の可能性にいち早く言及し、その後も、巨大不明生物特設災害対策本部(通称、巨災対)の事務局長としてゴジラ駆逐のために翻弄する。彼の存在が無ければ、東京の街はおろか、日本全体が再起不能になっていたかもしれない。
矢口という人物は、登場こそ論理的で無機質な印象を受ける。しかし、ゴジラによる被害を目の当たりにし、徐々に感情が揺れ動き、理想主義者のような熱い側面も露わになる。庵野は、撮影後半に「これは矢口の成長物語かもしれない」と長谷川に伝えたという。矢口は組織の理不尽さに揉まれつつも、政治家として信念を曲げなかったのである。
 では、「シン・ゴジラ」で描かれているのは、優秀な1人の先導者の必要性なのだろうか。恐らくそうではない。矢口の成長と並行して描かれているのは、無数の「個」の存在意義なのだ。まず前提として、この作品の基盤にあるのは、どれほど能力のある1人も、あくまで集団の1人、組織の一部として機能するという極めて日本人的な組織文化である。矢口は、たった1人で脅威に立ち向かうスーパーヒーローではないのだ。政治家の1人であり、内閣の一員なのだ。そして先ほども述べた通り、本作には329名のキャストが登場する。前田敦子斎藤工など幅広い俳優陣がたった1分にも満たない僅かな尺で出演しているのだ。初めて鑑賞し終えた時は、役名を思い出せるのは数名だったほど、多くの「個」が出演している。そして、驚くことにその無数の「個」に全く無駄がないのだ。
 この事実を最も象徴しているのが、矢口プランによる「ヤシオリ作戦」だ。この作戦の直前、国連安保理はゴジラに熱核攻撃をするという決定を下す。そうなれば周辺住民360万人が疎開をせざるを得ない。この「核」という存在は膨大な力を持った「個」と言うこともできるだろう。しかし必要とされたのはその巨大な「個」ではなかった。多方面から集まった有識者の知恵をかき集めて編み出された「ヤシオリ作戦」は、新兵器など一切使用せず、全国からタンクローリー、ポンプ車が東京に集まり、新幹線、在来線を活用して攻撃するという、小さな無数の「個」によって成り立つ作戦なのだ。矢口という優秀な先導者もその一部に過ぎない。
 日本人的な組織文化は、無駄な風習やしきたりが多く厄介だ。しかし、「シン・ゴジラ」では、その集団的で非効率な日本のやり方を存分に揶揄した上で、新たなる形に再構築していると言えるだろう。


現実と虚構


 本作では、ゴジラという怪獣が日本に上陸するにも関わらず、常に舞台は会議室である。そしてあまりにも多い登場人物の大半が、政治家、官僚、自衛隊、防衛組織の人間なのだ。これは、新聞記者や研究者と言った民間人を主人公とするこれまでのゴジラ映画とは異なる点のひとつだ。会議室で、専門用語を早口で話し、次々と意見を交わす彼らの姿は、娯楽映画として、決して親しみやすいものではないだろう。さらに本作では、彼らが恋人とコンタクトをはかったり、家族に安否確認をするようなシーンは全くない。
 なぜそこまで親しみやすさや人間味を排除したのか。その答えは、本作のキャッチコピーにある。「現実対虚構」と書いて「ニッポン対ゴジラ」と読む本作のキャッチコピーには、「現実の日本がゴジラという虚構にどのように立ち向かうのか」という作品の主軸が見事に表れている。
 虚構的存在であるゴジラは、当然、理不尽で予測不能だ。前半はその事実が痛いほど描かれている。「100度を超える体温の生物などいない」と鼻で笑った直後、ゴジラが姿を現す。「上陸の可能性はない」と首相が会見を開いた直後、ゴジラは本土に上陸する。その後も幾度となく政府は“想定外”の事態に見舞われる。ゴジラを過小評価し楽観視することで、事態が悪化、被害が拡大してしまうその様子は、まるでコロナ禍にある近年の日本を見ているようにも思える。これは、本作が「対ゴジラ」以外の描写を極限まで排除し、人類の想像の範疇を超えた虚構的存在と対峙する人間たちをリアルに描いた故だと考える。
 しかし、忘れてはならないのが、2021年、全人類を苦しめている新型コロナウイルは、残念ながら紛れもなく“現実”であるということだ。我々の日常をたった1年で非日常に変えてしまったこの“現実”に、日本はどう立ち向かうのだろうか。
 作中、多くの人々の尽力の結果、矢口プランを実現させ、作戦遂行にあたる際、矢口は言う。「日本はまだまだやれる、日本の未来は明るい」と。矢口がまだやれると感じた日本、「シン・ゴジラ」で“現実”として描かれた日本は、果たして本当に“現実”なのだろうか、はたまた“虚構”なのだろうか。どうか“現実”であって欲しいと願ってしまうのは私だけではないだろう。


 ここでは語りきれなかったが、本作には何度観ても飽きない魅力が無数にある。「新世紀エヴァンゲリオン」を彷彿とさせるマニアックで疾走感のある演出、高揚感を覚えるBGM、庵野のプライドを感じる特撮の爆発力。加えて、日本の神話から名付けられているコードネームや、作中で使用されている写真の意図、2017年に公開されたゴジラ第五形態の恐ろしすぎる姿など、細かい仕掛けまで含めると数えきれない。
 日本が総力を上げてゴジラと対峙したように、「シン・ゴジラ」は日本の映画業界が成せるもの全てを注ぎ込んで創り出された傑作といえるだろう。不透明で不安定なこの状況下だからこそ、全ての日本国民に観てもらいたい作品である。


【募集要項】
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