
インタビュー シアターアーティスト 福田響志
幼少期より子役として活躍し、デスノートのニア役や劇団四季ライオンキングのシンバ役を努めた。14歳の頃からアメリカで芸術を学び、演者としてもプロデューサーとしても幅広いキャリアを持つ福田響志。現在ニューヨークを拠点に活躍する彼に、演劇の魅力、信念、彼の大きな野望などを聞くことができた。
自分にしかできない道
──自己紹介と現在の活動を教えてください
福田 福田響志(ふくだなるし)、20歳です。現在の活動っていうと難しいんですけど、肩書として1番わかりやすいのはTheatre artistですかね。ニューヨークを拠点に、プロデューサーやディレクター、ミュージカルを日本版にするときの台本の翻訳と、歌の訳詞をしてます。あとはちょろっと振り付けをやったりしてます。
──翻訳は勉強したんですか?
福田 してないんですけど、父*が昔ミュージカルの演出をした時に、プロデューサーさんが僕を知ってる方で、そのときに上がってきた歌詞を直そうかというときに父に助言するという形で訳詞をしてました。それきっかけで、趣味で何曲か書いていたらだんだん仕事になってきたという感じですね。
*父は「コメディの奇才」として知られる福田雄一監督
──翻訳のどういったところが面白いですか?
福田 英語で書かれているミュージカルを日本語にするってすごい不思議なことじゃないですか?普通に受け入れられてるけど、例えばエリザベスって役を日本人がやってることとか不思議だと思うんです。その上で日本語で違和感なく伝えるためにどうしたらいいかとか、ここはこういう歌詞だったら聴きやすいよなとか、こういう表現したら歌として綺麗だなーとか考えるのが楽しいですね。絶対元の意味合いは崩しちゃいけないんですよ。その演劇へのリスペクトしたうえで日本人に理解できるようにというところのバランスが難しいですけど、楽しいんです。
──プロデュースの仕事でいうとどういったことをやられていますか?
福田 「ほとり企画」というチームでプロデューサーをやっています。ほとり企画では今、自粛期間中にひとつおもしろいプロジェクトに参加させてもらってます。簡単に言うと落語をベースにしたオリジナルミュージカルを生配信する企画で、7/4からロングラン上演をしようと思っています。今絶賛リモートで稽古中です。他にも、オフブロードウェイ(NY)でプロデュースや演出する企画なども進めています。
──どの仕事も英語と日本語ができなくてはいけないのと、演劇への理解が必要という意味では、福田さんにしかできない仕事ですよね。
福田 そうなんです。日本と海外の演劇を繋げるという意味でも、いい道をみつけれたなと。

エンターテインメントの世界へ
──それ以前には何をやられていたんですか?
福田 元々子役をやっていました。最初は映画「L change the World」に出演して、そのあとはミュージカルです。ピーターパンとライオンキングに出演して、ライオンキングではシンバ役を3年と3ヶ月やらせてもらいました。今はわからないですが、当時は史上最長記録でしたね(笑)
──エンターテインメントの世界に入るきっかけは?
福田 僕は覚えてないんですが、ディズニーランドにいったときに、アトラクションに乗るよりパレードをみるのが好きだったらしいんです。ぶっ通しで舞台だったりを見れるタイプの子だったので、ダンスとかやらせてみるかって親がなって。それで入ったダンススクールが事務所も兼ねていて、割とその当時強い子役事務所だったという縁がありました。その後は、オーディションを受けて子役をしていました。

──その後海外で生活し始めたのは?
福田 14歳のときなんですけど、これがまた変な話で。ある日、母に「あなた来年アメリカいくから」って急にいわれたんですよ(笑)「えっ?」っていって(笑)普通に日本の中学に通って、子役の仕事の方は声変わりもあってライオンキングがちょうど落ち着いた時期で。普通の日本の学生になるのかなーと思ってたんですけど。「あなた来月から英語勉強して、来年からアメリカいくから」っていわれましたね。
──すごいですね(笑)普通に受け入れられたんですか?
福田 いや、行きたくなかったですね。今まで考えもしなかったので。でもうちは、母のいうことが絶対なんで。反抗とかないんです。家族全体なんですけど(笑)でもおもしろいことに、母の言うことを聞いておけば必ずいい方向にことが進むんですよね。それこそ僕がパレードを見ていてダンスが好きだと見抜いてこの道のきっかけをくれたのも母ですし。そういうジャッジ力が半端じゃないんですよね。それがきっかけで、14の時から一人でアメリカで寮生活してました。
──現在のお仕事は学生の頃からやっているんですか?
福田 17歳の高校生の頃から、まさしく今でいうリモートっていう感じでやってました。例えば「サムシング・ロッテン!」っていうミュージカルのタップダンスの振り付けをしてほしいっていうときは、アメリカで撮った振り付けの動画を日本に送って、日本に少し帰れたときにみんなで確認するという風にやったりしてましたね。
──演者としての仕事はやられていなかったんですか?
福田 子役のときでストップしていましたね。日本に長期間いないとできないことだったので。だから、アメリカに行ったことが作る側にまわったきっかけの一つでもありました。
──未練はありましたか?
福田 たまに感じます。たまに、自分がライオンキングに出てる夢とか見ます。長い話になるんですけど、僕はバセドウ病という病気を一度患っていて。ホルモンの病気なんですけど、1年間気づかなかったんですよね。ただそれの影響でその1年間がすごくしんどかったんですよ。座ってるだけなのに脈拍120みたいな。その時期は自分の中で演じることがつらいって思ってた部分があったので、そこでやっぱりシフトチェンジをしたんですよね。そこからディレクションとかプロデュースをして、こっちも楽しいじゃんって思い始めたのが今の活動にシフトしたきっかけにはなっていますね。
演劇という仕事の魅力
──演者を諦めても携わりたい演劇の魅力とはなんですか?
福田 コラボレーションだと思います。やっぱり自分が色々なエリアに手をつけているからこそ感じるんですが結局色んなことの融合なんですよ。ダンス、歌、翻訳、ディレクション、舞台芸術、舞台技術とか。すごい総合芸術感があって。自分が芸術全般好きだからこそ、スペシャリストたちが融合して、人々を楽しませる芸術を世に出すというのが自分に合ってるなと思います。

──仕事をするうえで大切にしていることはありますか?
福田 それこそ、コラボレーションなのでディレクションとかプロデュースとかの全体を見る仕事の時は視野の広さを大切にしていますね。誰が何が得意なのかの把握とか、その人たちの意見をちゃんと聞いたりとか。やっぱり日本人っていうのは確実性を狙っていくことが多いです。だからこそ高いクオリティーのものをずっと生み出し続けるということが得意な人種だと思っていて。アメリカでは失敗してもいいからとりあえずおもしろそうな事をやってみるということが多いと思っています。こういう視野を広く持つことと、チャレンジ精神はアメリカで学びましたね。
僕は人間が好きで、尖ってる人達に憧れがあるんですよね。俺はこれ一本でやっていくんだみたいな。だから自分にしても、人を見る目にしても個性を大切にしてます。そういう人たちの力を借りて底上げしていく為に、人をフェアにみて、受け入れるということも大事にしています。それと、父が言ってたことなんですけど、絶対に面白いと思うことをやるより、これやってみたらおもしろいかもという挑戦をしたほうがいいという考えです。とにかくやってみなきゃ始まらないっていうバイタリティは大事にしてます。
──影響を受けた人はいますか?
福田 父は、こういう話をするときにやっぱり避けれないですね。結局すごい影響を受けてるなというのは感じます。もちろん、母も何かを決断するときの助けになってますし。近々でいうと、小栗旬さんです。「ヤング・フランケンシュタイン」という舞台でご一緒したときから少し仲良くさせていただいてるのですが、小栗さんがハリウッドにお仕事でいらっしゃったときにちょうど僕もカリフォルニアにいて、そしたらちょっと遊びにきなよって呼んでもらった時があって。そのとき日本の大学に戻るか、アメリカの大学に進むか悩んでた時期だったんですよ。そこで色々話してたときに、「なるしにはアメリカに残っていて欲しい、いま日本に戻るのはもったいない」っていってもらって、そこでなんか決心がついたんですよね。アメリカの方が進歩しているところがまだ沢山あるし、そのフィールドで挑戦してるなるしがみたいという意味合いで言ってもらったと思うんですけど。
日本発のオリジナル演劇を
──それでは大学はアメリカなんですね。
福田 今はニューヨークの大学で、演出を専攻してます。年に2人しか演出家をとらないらしいんですが、幸いにも受かりましたね(笑)
──日本とアメリカの演劇の違いはありますか?
福田 日本の演劇はエンタメに特化している部分があって、バラエティをみても演劇を見ても人々を楽しませるという部分に重きを置いている気がしてます。アメリカの傾向として政治的、社会的なものが流行っている気がします。悪いことではないし、アートを通じて伝えることは良い事だとは思うんですが、そればっかりになってしまうと、僕としては日本のエンタメの感じもみたくなるんですよね。そこが大きな違いだなという気はしてます。

──今後の展望は?
福田 根底にはやっぱりオリジナルを作るということに憧れがあって。日本では、ブロードウェイのミュージカルを日本版にしてみてもらうというのが主流なので、オリジナルミュージカルを作ることに重きを置いていないんですけど、日本人でもオリジナルミュージカルを作れると思っているんです。無謀と思われるかもしれないけど、日本のオリジナルミュージカルを作ってブロードウェイ1にもっていくというのが一つの夢ですね。さらに大きい目標でいうと、トニー賞2とりたいですね。それくらい高みを目指してもいいと思っています。
1ニューヨーク州の劇場街で、ミュージカルの聖地
2その年のブロードウェイの優れた作品、演者、制作者らに与えたれる演劇界で最も栄えある賞
──最後に、福田さんにとってカルチャーとはなんですか?
福田 難しいですね。でも、本当に生きがいなんじゃないかな。生きる力っていうか。僕に関してであれば、演劇がなかったらっていう想像ができないので。本当にこれがあるから自分があると実感するから、このフィールドで生きていくんだと思うし、日本でもアメリカでもこのフィールドに貢献していけたらいいなと思っています。
──ありがとうございました。
