
辻本秀太郎(Shutaro Tsujimoto)
95年生まれ、東京都世田谷区出身。
慶應義塾大学で経済学部生でありながら大和田俊之ゼミでポピュラー音楽を研究。
卒論ではYMOの米国カナダシーンからの評価についての考察をし、教授からも優秀論文の評価を受ける。
学生時代には、英国音楽好きが高じてのロンドン留学や、
カルチャーメディア「FNMNL」でのインターンでのライター業も2年間ほど経験する。
現在は都内でトーキョ・ソウル・ポップを標榜するバンド「Bluems」でベーシストとして活動中。
<22歳、レコードを買い始める>
私がレコードを買い始めたのは2017年の冬、22歳の誕生日プレゼントで恋人からターンテーブルをもらったことがきっかけだった。もらったその足でそのまま一緒にレコード屋に行き、記念すべき最初のレコード探しで選んだのは佐野元春の『BACK TO THE STREET』。それも一緒にプレゼントしてもらうことになった。佐野元春は親の影響で何作か聴いていたがそのアルバムは未聴で、そして何より、それが彼のデビューアルバムであったことが最初に買うレコードとしてぴったりな気がして決めた。ちなみにそのお店とは、下北沢で曽我部恵一さんがオーナーを務めるカフェバー兼レコード屋というようなお店だったのだが、そこには曽我部さんの私物から販売をする棚があり、このレコードはそこから選んだものだったことを覚えている。帰宅後、慣れない手つきで慎重に針を落としたレコードから発されたプツプツ音のことやその時の高揚感は今でもはっきりと思い出せる。当時24歳の佐野元春による「1,2,3」という掛け声で幕を開ける1曲目”夜のスウィンガー”が、私の新しい音楽生活の始まりを生々しいロックンロールで祝福してくれていたその時の部屋の光景や匂いは今でも脳裏に残るが、それはその夜に興奮のままアップした青臭い投稿が今もInstagramに残っていることだけが理由ではないだろう。このレコードは今までに何度も聴き返し、特に、「共同墓地」「パーキング・メーター」「<生活>という うすのろ」といった彼特有のアーバンな言葉回しで都市生活者の恋人たちが歌われた、A面3曲目の”情けない週末”というバラードは私の生涯のベストソングの一曲となった。
<若者のレコードブーム>
こんな風にして、同世代の多くの音楽好きたちもそうだったように、私のレコード生活は始まった。そう、若者の間では近年ちょっとしたレコードブームが来ている。2010年代にもなって、レコードの現役時代を知らない世代たちが再びその良さに気がつき始め、支持し始めたことは世界的な現象として広く周知されている通りだ。アメリカではもはやフィジカルではCDとアナログレコードの売上はほぼ拮抗状態にあり(もちろん、ストリーミングサービスが音楽ソフト市場全体の売上のうち80%以上占め、圧倒的だが)2020年にはレコードがCDの売り上げを超える予想もされている。また、ここ日本でもレコードの販売枚数は10年前の10倍以上になっているという。今や日本のミュージシャンにとっても、アナログレコードでのリリースは選択肢の一つとして普通の感覚になってきた。
そんな近年のレコードブームについてメディアなどで語られる際のことだが、大抵はこんな説明がなされる。『アナログレコードの若者にとっての魅力とは、「アナログならではの温かみある音」や「針を落とす手間が逆に新鮮」「ジャケットが大きくてインテリアにもなる」などである』と。
このどれもに共感するし、全く間違ってはないと思う。実際、レコードの音の臨場感や迫力にはデジタルの音は叶わないと思うし(ジャンルによってはデジタルならではの音の魅力があることも認める)、手入れをすることで愛着が湧いたり、また簡単に曲の早送りやスキップできない「強制される聴き方」には、CDやストリーミング世代が初めて出会う、ある種のマゾ的な快楽がある。昔のレコードの凝ったアートワークの仕掛けを細部まで楽しんだり、黄ばんだ歌詞カードからそれが歩んできた歴史に思いを馳せるような「ものとしての魅力」もやっぱり私たちにとっては新しい。
しかしながら、レコードの魅力が語られる際にこのような「レコードという再生メディア自体の魅力」に終始することは理解できるものの、「そこだけじゃないな」と気がつき始めたのが、レコードを買い始めて3年ほど経った最近のことだ。実はそれについて語ってみようと思うのがこのエッセイの本旨なのであるが、その動機とは他でもなく、私と同じような感覚を共有する人が同世代に少なくないだろうと信じていること、そしてもし彼らがまだその感覚に出会っていないとすれば、是非気づいて欲しいと思うお節介心からである。そしてさらに言うと、「温かみのある音」や「手間が逆に新鮮」「インテリアとしての良さ」と言ったような定説とは敢えて少し違う角度からレコードの魅力を提示することは、仮にも今のレコードブームがファッション的な流行で終わってしまう可能性が少しでもあるとするならば、そのような悲しい結末を回避し、若者のレコード文化が真の意味で根付くことに少しくらいは貢献できるのではないか、という自惚れと勝手な正義感によるものであることも告白しておこう。
<2010年代こそ私の青春>
さて、それについて書いてみようと思うのだが、説明をしようとするとレコードを聴くようになる前のことを振り返っておく必要が出てくる気がしてくる。「魅力」というものは、どうしたって主観的なものであるから、私がどういう音楽体験をしてきた人間であるかはこの話と切り離せないからだ。私にとっての、音楽好きなら誰もが経験した「クラスメイトと違う音楽を聴き始めた」時期が中2の後半頃だったので、それが2009年のこと。そう思うと、95年生まれの私にとっては、音楽と共にあった青春時代を振り返ることは、ちょうど丸々2010年代を音楽体験について振り返ることにもなることに今気がつく。この10年間に10代後半~20代前半を過ごした人間が、どのような音楽を、どのような再生メディアで聴いてきたか、という話自体も一つの資料として面白がってもらえれば幸いである。
<95年生まれとCD>
ざっくりと世代の全体感について触れると、あいみょん や二階堂ふみ、そして大谷翔平(+海外だとPost MaloneやKing Kruleも)と同期にあたる94~95年生まれの世代といえば、実は「CD」にはそれなりに思い入れがある世代だといえる。幼稚園・保育園の時に、セールス290万枚越え・平成歴代3位の大ヒットを記録した『だんご3兄弟』の8cmシングル(1999年)で最初のCDに出会い、小学生時代に誰もが聴いていたCDやアーティストといえば、当時9作連続でシングルチャート1位を取り続けていたORANGE RANGEだった。(彼らは私たちが小4~小6の間、出す曲全てで1位をとっていたことになる。)彼らを入り口にJ-Popに入った人は多く、私自身、初めて「アルバム発売日」を意識し、心待ちにしたのが彼らの3枚目のアルバム『ИATURAL』だったことを思い出す。親に頼み込んで予約し、発売日に手に入れていたはずだ。
その一方で、中学・高校時代になるとまさにCDが凋落して行くのを肌で感じ、時にそれに加担していた世代ともいえる。高校入学年にあたる2010年が、かの有名な「オリコン年間シングルTop10が全て、AKBと嵐」だった年。たくさんのクラスメイトが握手券のためにCDを何枚も買い、用無しになったCDが教室に転がっているのは見慣れた光景だった。iPodかmp3プレイヤーは大抵の生徒が持っていて、CDについては「買うことはあるが、CDプレイヤーで音楽を聴くことはそんなにない」というのが、音楽好きもそうでない人も含めた一般的な感覚だったのではないかと思う。
<ダビングはMD、そしてiPodへ>
個人的な話に戻そう。中2の頃にクラスメイトの影響でQueenやThe Beatlesが好きになった。いま思い出すと、そのきっかけになった最初のアルバムはQueenのベスト盤だったのだが、それはCDではなくMDにダビングされたものだったのが懐かしい。2006年ごろにiPod nano(第2世代)が流行り、私も確か中学に上がるくらいの時期に手に入れたのだが、それまでレンタルショップや人から借りたCDをコピーし手元に残す手段としてはMDが主流だったと思う。私は中学に入ってすぐにiTunesを使い始めて以降、音楽はPCにデータで保存するようになっていたが、その友人はまだMD派だったのだろう。まさにこの中学前半あたりはMDからiPodやmp3への過渡期で、高校に上がる2010年頃にはほとんどMDを聴く機会は無くなっていたと思う。
中高時代といえば、CDをiPodに移して聴くか、たまに親のプレイヤーでCDを流す、そんな聴き方だったと思う。iTunes Storeのダウンロードもとっくに始まっていたが、クレジットカードも持っていないし、1曲250円は割高でハードルが高く、私の周りではほぼ誰も使っていなかったように思う。音楽を聴くといえば大抵の人が、CDを買うか借りてきたものをPC経由でiPodかmp3プレイヤーに入れて聴いていた。私はといえば、リビングの家族共用PCでiTunesを使っていたため、共用PCを音楽データの容量圧迫でダメにし家族に嫌な顔をされていたことを覚えているが、これは同世代にはよくある話かもしれない。中高の帰り道といえば、中古CD屋に寄っては100円や250円や時に500円コーナーの棚を何時間も眺め、地元の図書館にも毎週のように通って欠かさずCDを借りては、iTunesライブラリを充実されることが何よりも楽しい毎日だった。図書館には新しいCDはあまりないものの、80年代くらいまでの音楽であれば大抵のものが揃っていた。図書館の貸し出し上限は1回6枚までだったのだが、上限まで借りないと損な気がしていつも無理矢理6枚借りていたことを覚えている。最低でも2週間に1回6枚借りていたと思うと流石にこの全てしっかり聴くことは難しいので、「図書館で借りる」というとアナログに聞こえる行為であるが、実はここにも「iTunesに蓄積できる」という時代のテクノロジーが地味に反映されていたことにはいま気がつく。そして同時に、結局ストリーミングがある今も、10年前の中高時代も、もしかすると50年前も100年後も、アクセスしたい音楽の量に対して人間のキャパシティが追いついていないことは変わらないのかもしれないなと思ったりする。
<渋谷タワレコに初めて行った日>
たまに気合を入れて中古以外のCDを買いに行った渋谷のタワーレコードにもたくさんの思い出が残っている。中3の頃、渋谷で模試を受けた帰りに友人と初めて足を踏み入れた渋谷タワレコは巨大な迷路のように思えた。現在の約2倍のスペースがあった当時の洋楽ロック/ポップスの売り場を歩き回って2時間ほど悩んだあげくに購入を決めたのがNirvanaのベスト盤だったのが何故だったかは思い出せない。プレグレ好きの友人はKing Crimsonの『Red』を買っていた。今覚えば、当時Led Zeppelinなど70年のハードロックが大好きでギターソロこそ命と思っていた私が、急に90年代以降のオルタナティブなどと呼ばれるギターソロすらないことも多々あるジャンルを聴き始めたのはこの”You Know You’re Alright”という未発表曲で始まるNivanaのベスト盤がきっかけだったのかもしれないと振り返る。思い返すと、偶然に出会ったCDが新しい音楽の扉を開く契機になってくれたことは多かった。中学の時にQueenやThe Beatlesなど王道のロックで意気投合しいつも仲良くしていた2人のクラスメイトがいたのだが、出会って1,2年経った頃には、1人はニューウェイブとテクノに、もう1人はプログレとメタルに傾倒していくように、私はNirvanaを入り口に90年代のグランジ やブリットポップが好きになっていった。それぞれの遍歴の曲がり角に、契機となるCDの存在があったのだろうと思う。音楽趣味は少しずつ合わなくなっていったが、時たま渋谷タワレコに、そして大抵は学校の近くにあった今はなき三軒茶屋のフラップノーツに帰り道に皆で寄っては、それぞれの欲しいものを買い、後日それらを交換し合うことなどしていた。
<ストリーミング・ネイティブ>
大学生になるとバイトを始めて使えるお金が増えた。でもそれと同時に行動範囲も広がり、娯楽の種類が増え、CDを買うことは少なくなっていった。バンドをはじめて機材やスタジオ代も必要だった。大学のサークルで音楽に詳しい友人や先輩が急にたくさん出来て、彼らにSkypeやNドライブ(クラウドファイル共有サービス) で膨大な音楽データをもらったりしていた。
そんな中、2013~14年頃、私が20歳を迎える辺りになると、ストリーミングサービスが普及し出し、私たちの世代の音楽の聴き方は大きく変わった。新しいもの好きの友人らはSpotifyが日本に来る前からVPNを使ってヨーロッパのアカウントを作りSpotifyを使い出し、その興奮をいち早く語っていた。私も彼らに触発されて登録し、とにかく使い倒した。月にCD1枚分の値段で、無限のライブラリにアクセスできる世界に感動し、聞き逃していた名盤や、昨日リリースされたばかりの新曲、CDではなかなか見つからないシングルB面曲などに毎日興奮し、無限に音楽を聴いてられた。この頃から自然とCDを買う習慣からは遠ざかり、たまに買う時はといえば、ライナーノーツや歌詞カードがどうしても読みたい時、または作品がストリーミング上にない時くらいになっていった。もちろん、Skypeで夜な夜な誰かと音楽データの交換をすることもなくなっていった。
ストリーミングサービスの登場に興奮させられたのは、ライブラリの豊さやユーザーの利便性、または優秀なAIのレコメンド機能の話だけではない。ストリーミングによって音楽文化や業界自体が大きく変化し出したことも大きな興奮だった。Kanye Westは2016年の『The Life of Pablo』で、すでにリリース後のリリックやミックスを更新・修正していくという配信ならではの実験的なリリースを行い、2017年にはChance the Rapperがレコード契約なしにストリーミング配信のリリースのみでグラミー賞を受賞した。ストリーミングの登場によって、音楽の作り手側の姿勢も大きく変わり出した。彼らが新しいシステムにどう対峙し何を表現していくかということに創造性を注ぎ、そこから新しいカルチャーがすごい速さで生まれていっている様はとにかく刺激的で、音楽産業の未来への期待を抱かずにはいられなかった。Radiohead『In Rainbows』(07年)のname your price(投げ銭)制のリリースの衝撃には立ち会えなかったが、自分たちの時代でそれを超えるような構造的な変化がストリーミングサービスによって起こっていることが実感できることは凄いことだと思った。もちろん、このような変化は2020年の今現在も進行形のこととして日々起き続けている。
<ストリーミング時代の中古レコード>
ストリーミングという音楽再生メディアの一つの到達点とも言えるものがある中、その対極とも言えるアナログレコードの支持が広がりだしたことは必然と言える(そして、その中間の立ち位置のダウンロード販売やCDが衰えていったことも)。冒頭の話に戻ること3年ほど前、佐野元春の『BACK TO THE STREET』でレコードの世界に足を踏みいいれた私は、中古レコード屋に行くことを覚えた。もちろん、最初のターンテーブルはハイクラスなものではなく、内臓スピーカーでも聴けるエントリー用のものであったが、それでもデジタルとは異なるアナログならではの良さを感じるには十分だったし、何よりレコードを集めることで「もの」を所有する感覚はストリーミング以降、久しく忘れていた感覚に再会するような楽しさがあった。中古レコード屋の棚を漁っては、これまでCDや配信で愛聴してきたものをレコードで買い直してみたり、時にジャケット買いをしては思わぬ出会いを楽しんだりと、昔のレコードを集めることを楽しんでいた。まず、お店に行って音楽を棚を漁るという行為自体が楽しく、10代のときの中古CD屋や図書館での気持ちを思い出した。中古レコードはうまく探せば2000円の予算で3,4枚買うこともでき、レコードマニア的な凝り方をしなければ、お財布にも優しいものだった。古い歌詞カードにある、洋楽アーティストについての誇張的で半分デタラメのライナーノーツを読むことも楽しみの一つだったし、歌詞カードには時に鉛筆でギターコードのメモが書き込まれていたりと、そのレコードが様々な持ち主を渡り歩いてきた歴史や、自分が生まれる前からこの世に存在してきたレコード盤が今自分の手の中に回ってきた縁について考えることは、中古CDとも違う、長い時間軸だからこそ生まれるエモーショナルな経験でもあった。
「音楽はその作品が出た時に一番輝いていたメディアで聴くのが一番良い」そんなことを言っていた大学の友人の言葉は妙に頭に残っていて、レコードを買うならCDが流通し出すより前のものがいいかな、などと漠然と思っていた。そのような感じで、レコードを買い始めてから最初の2年くらいはレコードといえば「中古」、そんな意識が自分の中にあった。
<ストリーミング時代の新譜レコード>
このような中、私のレコードの楽しみ方についての認識がもう一段階変わったのは、そしてこれはこの文章で書きたかったことでもあるのだが、昨年から「新譜レコード」を買い始めたことだった。最初のきっかけは、ある新譜レコード屋が毎週ラジオで新譜からの曲を紹介している番組を聴き始めたことだった。最初の半年くらいはインターネットで無料で聴けるそのラジオで知って気になった曲をSpotifyで探して聴くなどしして、新しい音楽を紹介してくれるメディアのような気分で楽しんでいた。そもそも、中古レコード屋が、その日どんなレコードが置いているかが分からないことから、「ディグり」にいくような感覚で行く場所であるのに対し、新譜レコード屋はお店に置いてあるものが「新譜」と明確なため、欲しい商品がある前提で足を運ぶ場所で、長居して棚を漁り続けるような場所でもなく、また値段も新譜だと1枚3000円近くするわけで、少し趣味として高級すぎるというか、憧れるけど「今ではないな」という感覚があった。しかし、そのレコード屋についていえば、毎週そのラジオを聴いていたし、HPやブログでの発信も大体チェックしていたので、例えSpotifyの月額の2倍以上するとは言え、3000円のレコードを月に1枚買ったところで彼らから与えてもらっているものに対して全然対価を返せていないくらいだな、と思うようになっていた。それで勇気を出してお店のドアをくぐり、ラジオで知って気になっていたレコードを1枚買ってみたのが去年の冬ごろだった。
そしてこれが一度新譜の良さを知ってしまったが最後、新譜レコードを追いかける習慣とペースが完全に身体の中に取り込まれてしまい、以降定期的に新譜を求めては買わずにいられなくなってしまった。
<ストリーミングで忘れていた感覚、人生を拡げてくれるレコード>
結論から書くと、私が感じている新譜レコードを買うことの良さとは「快適とは限らないものが常に向こうからやってくる」ことである。そしてこれは、自分の趣向を知り尽くしたAIが作成したSpotifyやApple Musicのプレイリストや、購買履歴から判断されたAmazonのおすすめ商品、Twitterのフィード上で頼んでもないのに表示される「友達の”いいね”」とは真逆のものだ。今の社会に生きる私たちは、特にネット上では、常に自分にとって気持ちが良く、個別に最適化された景色を強制的に見させられている。AIによるリコメンドだけではない。自分から情報を取りに行ってるように思えるGoogle検索だって、人は真実を探しに行ってるようで自分が信じたい意見やキーワードをタイプしてしまうし、SNSでわざわざ自分と逆の政治思想を発信するアカウントをフォローしたりはしないだろう。インターネットの検索を叩けば即座に「答えらしきもの」をとりあえずは見つけられる私たちは、批判や指摘をされないように慎重な物言いをするようになり、まるで「一般市民の身分では…」という断りが聞こえるかのように、自分たちが生きる社会や政治のことについて無難なことばかりをそれっぽく話すか、もしくは話すこと自体を放棄するようになった。そしてそれはネット上にも実社会にも反知性的な空気を蔓延させ、権威や社会的強者が大胆でわかりやすい発言をすればそれは注目され広がり、信じられ、デタラメが本物になり、トランプが大統領になりイギリスがEUを離脱した。言うまでもなく日本だって他人事ではない。何でもインターネットに書いてる今、全ての人が知識上(知性ではない)は平等で、でも情報が溢れすぎていて全てを読むことは物理的に不可能な中では、結局物事を判断する基準は「偉い人(もしくは信頼できる人)が言ってるから」しか無くなってしまっている気さえする。レコードの話からは飛びすぎてしまったがつまりはこういうことだ。新譜レコードを買い続けるという行為は、「快適さ」から離れたものに久々に出会わせてくれるということ。そして「〇〇が言ってるから良い」という盲信は政治においては世の混乱とポピュリズムにつながるが、カルチャーやアートにおいてはなくてはならない役目を果たしてきたし、私たちは中高生の頃に友人や先輩、また雑誌やレコード店員の言葉を盲信し、騙されてきたことで自分の中の文化的なキャパシティを拡げ、新しい音楽や芸術の良さを理解してきたということ。そして、この「盲信」の感覚は全ての音楽がフラットに並ぶストリーミング・プラットフォームによって一つ失われてしまった感覚であるということだ。止めどなく世の中に誕生し続ける新譜を受け入れ、対価を払って手にし、一度針を落としたら聴き続けるしかないその音楽を時に無理をしながら聴き、それを血肉としようとする行為は、まさに自分の「快適」外のことを理解しようとする試みに他ならない。「何だかよく分からないけど良いらしい」という私たちの中にある背伸びの感覚は、SNSの冷笑家たちには馬鹿にされるが、そういう感覚を10代の頃のあなたが持っていたお陰で今があることを忘れてはいけない。それをやめてしまう時こそが、「大人になり新しい音楽を聴かなくなるとき」の正体であるとも思うのだ。
<終わりに>
さて、ここまで好き放題に書いてきた10年間の音楽再生の個人史であったが、さりげなく差し込んだエピソードにおいても言いたいことはずっと一貫してきたつもりだ。最初に選んだ、恋人からプレゼントしてもらったレコードで生涯愛するだろう名曲に出会ったこと、小学生で夢中になって初めて欲したORANGE RANGEのCDが今も自分の棚にいてくれていること、図書館で6枚の上限を埋めるために無理して借りたCDが後々生きてくることが何度もあったこと、初めて渋谷タワレコに行った日に買ったNirvanaや趣味が離れていった友人たちから借りたCDがいかに自分に新しい世界を見せてくれていたかということ。これらはすべて「快適さ」を脱していく話でもあり、「偶然性」を求める話でもあり、「もの」への愛の話でもあり、また「背伸び」の話でもある。
そして念のため断っておきたいことは、最後に新譜レコードの魅力を熱弁したからといって、Spotifyは出会ったその日から今日まで常に思い入れを持ち続けているアプリだし、ストリーミングサービスを否定する気は一切ないということ。最近は例えば「The Clashを最初から全部聴いてみよう」とか、アーカイブ的な使い方をすることがとても楽しい。また、もちろんヒップホップの話になると、彼らがこのプラットフォーム上で2010年代後半に世界で一番聴かれる音楽になったことや、ミックステープが紡いできた歴史を考えると、むしろストリーミング上で聴くことのほうが正統な気もするので、手放しでレコードが一番偉いと思っているわけではないことも書いておく。家や街中で出会った曲をShazamして即座にSpotifyで聴けるスピード感にも本当に文明の力に感謝、という気持ちだ。そしてもちろん、最後は新譜レコードの話になったが、中古レコードについても相変わらず買い続けている。新譜を買う楽しみを知ったことで中古の楽しみ方も再定義されたような感覚で、中古に出会う楽しさも日々増していってる。
たった10年、いや5年違うだけで、後の世代の「音楽再生メディア」についての回顧は全く違うストーリーになるだろう。言うまでもなく、今の中学生や高校生は中古CD屋や図書館に音楽を探しに行かないだろうし、何より「クラスメイトと違う音楽を聴き始めた」14歳のその日からストリーミングサービスで古今東西の音楽にアクセスすることができる。素直に羨ましく思うし、そこから凄い才能もすでに出始めていると思う。そんな世代の「青春音楽再生メディア回顧」をいつか聞いてみたいなと思う。そして、同時にこれからの10年間、2020年代の音楽再生の形がどのようになっていくのかについては全く想像ができず夢は尽きない。私たちはストリーミングのその先に出会うことになるのだろうか。
最後に、先ほどは触れなかったが新譜のレコードやCDはアーティストを直接サポートできるという点も忘れてはいけない素晴らしい点だ。COVID-19によるライブの自粛で活動が厳しくなるアーティストもいる中、レコード1枚を買うことはそれが金銭としてアーティストにしっかりと還元される。これはストリーミング再生の何100倍にもなるので、これは間違いなく大きなサポートになる。ぜひこの在宅期間の機会に、あなたの好きなアーティストへのサポートをしてみて欲しい。各レコードショップも多くがwebショップでの通販を行っているし、もちろんレコードやCDを買うことはアーティストだけでなくレコード店を守ることにもつながる。音楽文化は、言うまでもなくアーティストの力だけでは成立できず、私たちとアーティストを繋いでくれて来たレコード店も同時に守らなくてはならない。ライブハウスやレーベル、音響エンジニアなど、沢山の音楽文化に関わる人たちについてもそうだ。彼らが一つでも欠けてしまうと私たちが愛してきた音楽文化は元通りにはならないだろう。今は店舗などには足を運ぶことは難しいかもしれないが、一人一人が出来ることは必ずあるはずだ。今はやることをやって、この外出自粛期間が終わったらまたレコード屋に笑顔(険しい顔?)が戻っていることを切に願う。(Shutaro Tsujimoto)